モトGP『初公開、ケーシー・ストーナーの素顔』
オフの時にはできるだけ職場のハイテクな空気から遠ざかろうとはしているものの、趣味としてやっている事と現在の仕事には相似性があることは認めている。つまり、常に追うか追われるか…と言う意味において。
「そうですね。ただ、レースでは常に追われる方になろうと思ってますけどね!第1コーナーで、他の選手達の真ん中を走ってる時って、一発くり出す前の瞬間って感じがするんですよ。四方八方に目を光らせて、自分のポジションを確保してゆく。まさにハンティングをしている時と一緒ですね。矢を射る前、すべてに目を光らせてる感じです。似てる点はいくつかありますが、大きな違いはハンティングをしてる時は気持ちが完全に静まっているってことですね。」
しかし、自然の中でも常に穏やかでいられるわけでもないと言う。
時速300kmの競合いでの恐怖…そこから生じる興奮状態。ストーナー選手と言えば数少ないトップライダー達の中でも、そんな状態に動じない1人なのだが、最近、ある状態で釣りをしている際に同じような興奮状態が生じたと言うのだ。
「ダーウィンの町へ釣りへ行った時に、もの凄いことがあったんですよ。もう、そこら中、ワニだらけでね。興奮しますよ。水面に目を光らせて、お願いだから何も出てきませんように…ってね。
多くの人達は穏やかな生活を送っているわけで、僕らがマシンを駆る理由って言うのはアドレナリンを求めているからなんです。恐怖=アドレナリン。ワニに囲まれ、その真ん中で釣りをしているのと同じなんですよ。普段とは違うタイプの釣りでしたね。こう言うのは本当に優秀じゃなきゃね。」
ストーナー選手は人生の大半を田舎で過ごしてきた。ゴールドコーストに生まれ、9才の時に家族と共にハンター・バレーに引っ越し。ブドウ作りが盛んなこの地域へは、2輪のキャリアを高めるべく移住してきたのだ。
「クィーンズランドの町のレースに出続けても意味がなかったんですよ。もう全勝してましたから。あまり面白くなかったんでニューサウスウェールズ州へ移ったんです。もの凄く大変になったってほどでもないんですが、でも、以前よりはかなり頑張らないといけなくなりましたね。」
ストーナー選手が初めてマシンを走らせたのは1才4ヶ月の時だった。
「PW50に乗って、長く続く丘の斜面を飛ばしまくったもんです。上り坂でプッシュしたら下りになって、そうやって進んでゆくんですよ。3才の時には1人でミニモトの操縦もできました。その頃からかな、ガソリンの備蓄がそれなりにある時は、ほとんどマシンに乗って過ごしてましたね。」
そして4才でレースに初出場、13才になるまでに41の国内タイトルを獲得している。
桁外れの経験、流血沙汰の転倒の数々の中で、ストーナー選手は成長していった。それは伝説のミック・ドゥーハンやウェイン・レイニーらが辿った道とまさに同じだ。
ストーナー少年は1日のうちにいくつものレースに参戦した。中にはほんの数秒で終わってしまうようなものもあった。こう言ったレースが、あの早々にアタックを仕掛ける能力を開発していったのだ。わずか数周でマシンの…あのドゥカティのデスモセディチ機に至るまで、その力を最大限に引き出すストーナー選手の能力は、ここから生まれ出たのである。ライバル達が良く呆気にとられている、あの能力だ。
ある段階で、ストーナー選手の両親は息子の特殊な才能を確信し、全てを売り払ってイギリスへと向かった。ここでストーナー選手のスピードはすぐに開花した(オーストラリアに居たら、もう2年はかかっただろう)。
デビューした2000年に、アプリリア125ccを駆って国内大会で総合優勝。その2年後にはオートバイ世界選手権へ参戦。翌年には初の1位を獲得。250ccクラス〜125ccクラスで走り、再び250ccクラスに返り咲き、2006年にはモトGPクラスへと上がり、2007年にそこで総合優勝。
26才と言う若さにもかかわらず、1位に輝いた回数は既にウェイン・レイニー、ケヴィン・シュワンツ、フレディ・スペンサーを凌いでいるのだ。
[後編に続く]
(日本語翻訳:La Chirico / 伊語記事:Motosprint 2011年05月24日)
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ワニがたくさん居たら、
場所を変えるわけにはいかなかったんでしょうかね…
ロッシってちょっとワニに似てる?クリックPrego