モトGP『富沢選手のご両親がミザノでモバイルクリニックへ』
私達は、此処ミザノにいる。
一年が過ぎ、もうすぐ秋に…笑顔の消える季節になろうとしている。
此処でウエダさんと(皆から愛されている日本人元ライダーだ)と一緒になり、そして、冬になってしまうのだ。決して春の来ない冬が、私達の心を凍えさせる。
一年前、富沢祥也選手が私の腕の中で逝ってしまった時、いつも微笑んでいたこの若者のご両親へウエダさんは電話をかけた。そして、決して口にしたくはなかった事を口にした。
ショーヤはいつも誰に微笑んでいたのだろう?
あの日、ミザノで、それが分かった。
あれにだ。
抗いがたく、絶え間なく誘い続ける黒装束の…ショーヤの夢を妬む死神に微笑んでいたのだ。
今日、ウエダさんはショーヤのご両親に電話をかけない。ご両親は…テルユキさんとユキコさんは、此処ミザノで、モバイル・クリニックで私達と一緒にいるからだ。
涙が満ちた母親の手が、そっと私に、ショーヤの運命が描かれたハンカチを渡す。
彼の喜びや、友人、レース、そして彼が人生と言う宝くじで当たり番号だと信じていた『ナンバー48』のマシン。
それから、父親が震える両手で箱を差し出してくれた。
中には菓子が入っていた。息子の大好物だったと言う。
今、私のものとなったこれは、もう甘い菓子ではなく、ただただ懐かしい味がすることだろう。
泣かずにはいられない。
ウエダさんが泣き、ご両親が泣く。
私達は言う。
「なぜこんな、辛いだけの場所へと来られたのですか?」
「なぜ痛々しい苦しみに鞭打つために?」
「ええ。辛い辛い思いをしました。此処へ来るのも厳しいぐらいに。」と、か細い声が返ってくる。
「ただ、此処で祥也は幸せでしたから。いつも笑顔で、最後の瞬間、空にも笑顔を向けてましたから。」
そして、皆の胸が詰まる。
「私達は、この空が見たかったんです。うちの息子の笑顔を受け取った…この空が見たかったものですから。」
私達は泣きながら肩を抱き合い、次々と固い握手を交わした。
ショーヤは共に此処にいる。ずっとずっと此処にいる。
(訳者注:上記の文章はモバイル・クリニックのクラウディオ・コスタ医師によるものです。)
(日本語翻訳:La Chirico / 伊語記事:Clinica Mobile 2011年09月04日)
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昨年、富沢選手がお亡くなりになって1週間後に所用でミザノ界隈を通りかかった時
急なにわか雨の後、空にきれいな虹が出ていたのを覚えています。