モトGP『マルコは速いって?いつも遅れて来てたよ』
マルコ・シモンチェッリの葬儀の翌日、マルコの自宅の…生前、両親や妹、婚約者のケイトさんと一緒に住んでいた家の門戸が解放されていた。
ご家族が気持ちを強く張りながら、『シッチ』を訪ねて来る友人や報道陣、ファンらを迎え入れていたのだ。
居間のテーブルの上に並べられたコーヒーとお茶菓子を囲み、客人らと共に父パオロさんが早逝してしまった息子にまつわるエピソードの数々を語り合っている。
傷口の痛みはいまだに生々しく、記憶はあのセパンでの事故直後へと飛ぶ。
果てしなく続く瞬間…その間、希望と愛情が常識と戦っていたのだ。パオロさんはこんな風に語った。
「スクーターに飛び乗って事故現場へと向かったんですが、でもね、とてもゆっくりでしたね。2分はかかったかな。多分、エゴからなんでしょう。向かってる間ずっと、どうぞマルコじゃないように…って願い続けてね。」
失意の中、「なぜ」と問い続ける。パオロさんはブリヂストンのタイヤを責めた。パフォーマンスが悪くなってきたと、特に、暖まるまでに時間がかかり過ぎると。
そうしているうちに突然、ごく自然な感じで幸せな昔話に花が咲き始める。幼き日のシッチが、どれほど負けず嫌いだったか、気に入った事にどれほど夢中になっていたのか。パオロさんが笑顔で、ジル・ヴィルヌーヴのビデオについて語り始めた。
「ヴィルヌーヴ選手が亡くなってすぐに、私がビデオ選集を買ってきたんですよ。そうしたらマルコがもう夢中になってしまってね。いつも、そればっかり観てるんですよ。すっかり取り憑かれてしまって、最後は母親に没収されてました。」
今となっては運命の悪戯のようにも思えるのだが、ヴィルヌーブ選手が亡くなった後、パオロさんは追悼の気持ちを込めてバラの花を植え、その後、すくすく成長、リッチョーネからコリアーノの町へと引っ越した際の植え替えにも持ち堪えたのに、まさに今年、枯れてしまったのだと。
シッチはヴィルヌーブ選手から、迷いのない魅せる走りを学んだ。日頃はオートバイレースに関心のない人間をも熱狂させてだ。
「いつも息子には“諦めるな”と叩き込んできました。ミニモトレースに出始めたばかりの頃も、“たとえビリで走っていても、前の選手を何が何でも追い抜け”ってね。」
この頃から、何事に対しても力を振り絞ると言うシモンチェッリ選手の姿勢は、サーキットの中でも日常生活の中でも遺憾なく発揮されるようになった。
パオロさんはシッチが良く障害児施設に通っていたことを話してくれた。親元から離れて暮らす子供達を訪ね、一緒に写真を撮ったり、肩を組んでお喋りに興じたりしていたのだと。
「マルコはモバイル・クリニックにも、かなりの寄付をしたことがありました。日頃は、お堅い感じのクラウディオ・コスタ医師もビックリ仰天してね。」
パオロさんが思い出し笑いを浮かべる。当時は、そう言った息子の活動に付き合えるような時間も、能力もないように感じていたのだと。それが今は、マルコの名の下、その精神を引き継ぐような慈善団体を創設したいと思っているのだ。
ちなみに、皮肉なことだが、シッチの『速さ』の方はコース上でしか発揮されなかったのだそうだ。母ロッセッラさんが、シッチの中学生時代に教師に宛てて詳しく書き綴っていたように、周りにいる人間ほとんどがげんなりするぐらい、何事に対してものんびり構えてるのが好きだったのだ。
ご両親によれば、とにかく約束の時間に遅れることに関して創造的でさえあったと言うのだ。
「一度、ホンダと契約するのに一緒にボローニャに行ったことがあるんですが、珍しいことに時間通りに到着できたんですよ。でも、ホテルに入った途端、マルコがトイレを探し始めてね。あっという間に15分遅刻ですよ。」
(日本語翻訳:La Chirico / 伊語記事: Gpone 2011年10月27日)
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イタリア人がげんなりするぐらいなんだから、それはそれは、かなりの遅刻魔だったんでしょうねぇ…
シッチへ、天国へは遅刻しないで到着してね…クリックPrego