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追悼ファウスト・グレジーニ:ジョヴァンニ・ザマーニ

『追悼ファウスト・グレジーニ:ジョヴァンニ・ザマーニ』

★新型コロナウイルスで闘病中だったファウスト・グレジーニ逝去が、2月23日午前10時30分に同チームより公表された。

★ジョヴァンニ・ザマーニ記者(イタリア衛星放送『SKY』レポーター)が、以下の追悼記事を出した。

《ファウスト・グレジーニが逝ってしまった。新型コロナウイルスに感染し、クリスマス後からボローニャのマッジョーレ病院で懸命に戦ってきたのだが、最後は負けてしまった。

昨年12月27日から、ファストはずっと集中治療室で人工呼吸器を付けられ、結局、一度も外されることはなかった。回復も見られ、2週間前にはコロナ陰性が判明していたのだが、残念ながら容態は常に重篤なものだった。
先週の、まさにグレジーニチームのプレゼンテーション前日には急変し、カルロ・メルリーニ(同チームのコマーシャルディレクター)が『ファウストが進めたがっているから』と言って、決行していたのだ。
その後、土曜から日曜にかけて危篤状態となり、やや回復もし、僅かな希望を見せはしたものの、逝ってしまった。

ファウストは1月23日に60才の誕生日を迎え、妻のナディアさんや4人の子供達を残して逝ってしまった。息子のロレンツォさんはこの数週間、フェイスブックに定期的に容態を報告してくれていた。
ご家族の皆さんに、心からご冥福をお祈りします。

ファウスト・グレジーニは1985/1987年に125ccクラスで総合優勝しており、特に87年には全11戦中10勝しての快挙だった。
ただ、グレジーニと言えば、1990年オーストラリア最終戦で若きチームメイトことローリス・カピロッシの125ccタイトル獲得に手を貸したことが、大勢の記憶に残っている。当時、ルーキー選手だったカピロッシを…ひたすら学ぶだけの立場だった若手ライダーのことを、No.1ライダーのグレジーニがサポートする寛大な姿は実に感動的なものだった。
彼の立場なら嫉妬や恨みを抱く者もいるだろうに、グレジーニはカピロッシがビッグライダーになる手助けをしたのだ。2人の間のライバル心は、トラックの中だけのものだった。当時、カピロッシはまだ免許を持っていなかったため、ヨーロッパ内の遠征には2人連れ立って来ていたのだから。
トラックの内外で対立することもありはしたが、しかし、常に強い絆で結ばれていた。なぜならば、ファウストと言うのは嫉妬と言うものを抱かない、とにかく寛大な人間だったのだ。2人の絆は本当に強く、1995年にはグレジーニがカピロッシのコーチ役をやっていたほどだった。そして、1996年からチームを持つことを考え出し、97年には500ccクラスにアレックス・バロスをホンダ機で参戦させた。

その後、チームは着実に成長していき、年々、グレジーニチームは重要なポジションを占めるようになっていった。レース優勝を重ね、250ccクラスではダイジロウ・カトウが、モト2クラスではトニ・エリアス、モト3クラスではホルヘ・マルティン、モトEクラスではマッテオ・フェラーリがタイトルを取っていた。

凱旋街道を突き進んではいたものの、大きな喪失も味わっている…2003年鈴鹿戦でカトウを、そして、2011年セパン戦ではマルコ・シモンチェッリを失っているのだ。
2人とも実の息子同様に可愛がっていたライダーだったため、ファウストの胸に刻まれた傷はあまりにも深く、レース業界からの撤退も考えただろう。しかし、オートバイへのプロ魂のおかげで歩みを止めずに来れたのだ。

穏やかな物腰と笑顔を絶やさないところはエミリア・ロマーニャ地方の人間独特のもので、わかりやすい言葉を使いながらも、常にジョークを交えるのが好きだった。
私はグレジーニチームのホスピタリティに行くのが本当に楽しみで、まるで自分の家に帰ってきたような気がしたものだった。
2輪レース業界にとって、大きな損失となってしまった。》

(参照サイト:『Moto.it』)
(Photo:Facebook

POSTED COMMENT

  1. smitsy より:

    ちょっと信じられないですね。ご冥福をお祈りいたします。

  2. 序餡 より:

    まさか…絶対サーキットに戻って来ると思ってたのに…
    御冥福をお祈り致します(涙)

    中国!絶対ゆるさん!

  3. kai より:

    現役時代のことは知りませんでしたが、いつもニコニコしているイメージだったので、この記事を読んでお人柄というものが分かりました。
    本当にお疲れ様でした。そしてありがとうございました。

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