今年9月5日、イタリアのミザノGPでレース中の事故で亡くなった富沢祥也選手。
そして、あの日、あまりに深い心の痛手を負うこととなったアレックス・デ・アンジェリス選手。
事故が起きた時、後方から走ってきたため転倒した富沢選手の身体に乗り上げてしまい、精神的にかなりの重圧を背負うこととなったのですが、その数ヶ月後のオーストラリア戦では同じ境遇のスコット・レディング選手と共に1、2フィニッシュでゴール。勝利を空の彼方の富沢選手へと共に捧げていました。
そのデ・アンジェリス選手のデビューから、そして、事故後の現在までが伊人コラムニストによって綴られております。
モトGP 『デ・アンジェリス:ブレーキのないライダー』
デ・アンジェリス選手が、初めてレースに出た時の順位表。
もう数ヶ月も前から机の上に出しっぱなしになっているのだが、私はこれを基にして、このライダーについて語りたいと思う。彼のキャリアを象徴しているのものだと思うからだ。
アレックス・デ・アンジェリス(26才)は、サン・マリノで生まれ育っている。ミニモトから始め、『大きな』サーキットでのレースに初めて出場したのは1998年5月24日のこと。この年、ピアッジョ・グループが同社のスクーターGilera Runner 180機のためにワンメイクレースを開催していたのだった。
第1回目のレースはイタリア北部寄りの町ヴァラーノ・デ・メレガーリで開催され、20名ほどの参加選手の中にはマルコ・ダッラーリョやアンドレア・ペルセッリなど、イタリア国内では『二輪ライダー』として認識されていた選手や、若き日のイラリア・ケリ(女性ライダー)も含まれていた。
スクーターとは無縁だった私は、なぜか『新聞屋』と言うことでお呼びがかかり出ることとなったのだが、出場選手らの中で最も脅威的なのは先の3名だと思っていた。それが大間違い。
参加選手らの中で最も若かった選手2名、アレックスとウイリアムのデ・アンジェリス兄弟が、まるで脱兎のごとき速さを見せたのだ。
弟のアレックスは14才、子供じみた薄っぺらな体型で、Gilera Runne180機にまたがると地面に両足が付かないような身長。守ってあげたくなるようなタイプだった。ところが、この少年ライダーが全員の目を釘付けにしたのだ。そこのトラックで走るのも、そのマシンに乗るのも、初めてだったにもかかわらずだ。
PPになったのは兄ウイリアムで、2位は0.008秒差で私、そして、その次がそれより0.2秒弱遅れて、その『よいこちゃん』の弟アレックスだった。
兄弟2人共に迷いはなかった。アクセルを全開にし、自分達よりも経験豊富なライダーやバイクマニア達の前を行く。
だが、レースの行方と言うのは分からないもので、己の限界を見極め、コースや競合いを読んでいかなければならない。それを間違えようものなら、その週末はドブに捨てたも同然なのだ。
アレックスの方は完走できたのは最初の2ラップだけで、その後、転倒。朝方の雨でアスファルトが特殊なコンディションになっていて、上手く走るには多少の経験が必要だった。
ミスと言うものはある。特に、こう言う若い時分には。
こうしてアレックス・デ・アンジェリス選手のライダー人生が始まったのだが、あろうことか、その後の数年間ずっと同じようなシチュエーションに見舞われてしまった。つまり、予選ではトップクラスの速さを披露し、本戦では勢い余っての転倒を繰り返したのだ。
1998年以来、オートバイ世界選手権の出場回数179回。そのうちPPが10回、表彰台が36回、1位は2回のみ(250ccクラスでささやかな幸運に恵まれて1回、モト2クラスで1回)、また、モトGPクラスのインディアナポリス戦で2位が1回。
アレックス・デ・アンジェリス選手のことを、速いライダーだと言えないことはないのだ。だが、世界選手権でのタイトルを獲得するには、もう一つ何かが欠けている。多分、あともう少し成長し、自制心を身につけることが必要なのだ。つまり、絶好のタイミングで『ブレーキ』をかけられるようになることが必要だったのだ。
そして、この成長への最後の一歩は、今年9月5日、あのミザノGPでの不慮の事故によりもたらされることとなる。
デ・アンジェリス選手が巻き込まれた富沢祥也選手の死亡事故。
あの事件で、デ・アンジェリス選手はこの世の終わりを垣間みた。人として、精神的にボロボロになり、心身が喰い尽くされるような状況に放り込まれ、深く思い詰めるようになっていた。
暗黒の1年を過ごしていたのだ。まずは経済的困窮でチームが解散、その結果、チームから得ていた収入が儚く泡と消えた。その後の度重なる転倒、ケガに続き、あの劇的な一日を迎える。おそらくデ・アンジェリス選手の人生において、そして、富沢祥也選手の人生において最も劇的な、あの日を。
デ・アンジェリス選手には、人生に、そしてマシンに対峙する際、常にある種の無謀さがあった。20代の若者独特の不敵さ。今ではバイクに乗っている時も乗っていない時も、成熟した、一人の男だ。
カルロ・ペルナット氏(カピロッシ選手のマネージャー)と共に、その不敵さを取り戻したのだった。立ち止まってしまった所から、また、走り続けるために。
ミザノ戦以降、結果を出し続け、遂には1位を獲得した。来季、モト2での総合優勝を目指して準備万端であることは確かだ。
なぜならば、14才の少年がデビュー戦で飛ばして行けるなんてことは、ただのまぐれじゃないのだから。
(日本語翻訳:La Chirico / 伊語記事: Moto.it 2010年12月01日)
事故直後のデ・アンジェリス選手は
精神状態が本当に不安定だったことが
報道されていたので、ここまで立ち直れて
本当に良かったです。
そして、改めて富沢選手のご冥福をお祈りいたします。
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