『フアン・カリガ、逝く』
★8月24日(月)、1980〜90年代にロードレース世界選手権で活躍していたフアン・ガリガ(52才、バルセロナ出身)がオートバイ事故に遭い、負傷。27日(木)、バルセロナの病院で亡くなった。
★ガリガ元選手は1984年に世界選手権250ccクラスでデビューし、1886年にはカジヴァ機で500ccクラスに昇格。翌87年には250ccクラスに復帰し、88年にヤマハ機で総合2位を獲得している(同年の総合優勝はホンダ機のシト・ポンス)。
★非常に速いライダーではあったが、ミスが多く、1990年より500ccクラスに参戦していたが、総合7位前後のリザルトだった。1993年、負傷したチャンドラー選手の代役として参戦したのがロードレース世界選手権の最後となった。また同年、SBKの第4ラウンドまで参戦していた。
★バルセロナ市内の一般道での危険運転(スピード違反)により各種免許証は没収され、今年6月のインタビューでは「最後はマズイことになるかもしれない」と話していた。
また、晩年はドラッグにより収監もされ、生活を立て直すことができずにいた。
(2015年08月27日『Moto.it』記事参照)
(2015年08月27日『Gpone』記事参照)
(2015年08月27日『Marca』記事参照)
フアン・カリガ元選手のご冥福をお祈りします。
90年代地上波でGPが見れるようになってあのパックマンメットで大天使と呼ばれ
500クラスで唯一の表彰台で強面で叫び喜んでたのを憶えてる。
当初はそのままの読みでジュアン.ガリガって呼ばれてた方が印象深い … R.I.P
なんか懐かしいなと思い出しました。パックマン?のヘルメットに青ドカドスに赤ドカドスが記憶にあります。
熱いファイターが… 残念です。
ライディングスタイルが攻撃的だった印象が…R.I.P
残念です…YAMAHAで好きなライダーの一人でした。
ポンスと激しいタイトル争いをしたのが印象的でさしたが、500で活躍しているときは赤のイメージが強いです。
なんとなく立ち位置がLCR時のブラドルとかぶります。
R.I.P
85年は三菱のスポンサーカラーのJJコバス、86年はカジバで500に参戦し87年は遂にYZR250を獲得し第2戦目のスペインGPヘレスで早くも表彰台をゲットしました。しかし印象的だったのはポルトガルGPハラマでの超ベテラン、アントン マンクとの一騎討ちで最後には敗れたものの翌年の活躍を大いに期待させるものでした。
88年はポンスと激しくタイトルを争い、特にアッセンではファイナルラップの最終シケインで両者接触転倒と熱いバトルを繰り広げました。
翌89年は鮮やかなブルーのマシンにゼッケン2を付けてタイトル獲得かと期待されましたが失速し結局一度も表彰台に立つことなくシーズンを終え500に転向しました。
たとえ晩年がドラッグから立ち直れなかったのだとしても僕にとってヒーローであることに変わりありません。本当に残念です。
500のレースで、最後の優勝となったガードナーと表彰台で帽子の蹴り合いっこ?してたの思い出す。
ガードナーの超ファンだったけど、当時数少ないスペイン人ライダーで変なヤマハ機駆って出て、中々好きだったなぁ。