MotoGP

さよならスズキ:世界選手権52年の歴史を振り返って

モトGP『さよならスズキ:シーン、シュワンツ、伝説のライダー達』




スズキが52年に渡る世界選手権の歴史を手放した。
同社が125cc機でもって、初めてマン島TTレースに参戦したのは1960年のこと。
ライダーは松本聡男、市野三千雄、伊藤光夫。急に決まった話で、目を見張るようなリザルトでもなかったが、これが世界選手権参戦への道筋をつけた。その後、その世界選手権において50、125、250、500、モトGPクラスのコンストラクターズ・タイトルを15回獲得していったのだ。
1961年には125および250ccクラスに参戦したが、トップに名を連ねるのは翌62年から。ドイツ人エルンスト・デグナー選手により50ccクラスのライダーズ・タイトルを、そして、同クラスのコンストラクターズも獲得した。

最初の一歩
1963年、今度はヒュー・アンダーソン選手が50、125cc量クラスでスズキにタイトルをもたらし、また、総合順位ではトップ5までに4名のスズキライダーが名を連ねた。その後もアンダーソン選手は1964年に50ccクラスで、1965年に125ccクラスで再度チャンピオンとなっている。
1967年シーズン終盤でスズキはレースからの撤退の意思を明らかにするが、翌68年にはアンシャイト選手が前年度のマシンを駆って総合優勝。しかし、1969年にレギュレーションが変更され単気筒エンジンのみとなると、スズキの多気筒エンジンは完全に終焉を迎えた。

125ccクラスで世界選手権デビューを果したスズキだが、1962年には同クラスでヒュー・アンダーソン、エルンスト・デグナー選手により7位、11位のリザルトを獲得し、アルゼンチンGPではアンダーソン選手が125ccクラスでスズキに初勝利をもたらしている。その翌年もアンダーソン選手は勝ち続け、1965年には総合優勝、チームメイトのフランク・ペリス選手も2位を獲得すると言う快挙を成し遂げた。
1968年以降はプライベートチームのみとなったものの常に好リザルトをたたき出し、1970年にはディーター・ブラウン選手が総合優勝、翌71年にはバーリー・シーン選手が総合2位に輝いた。




500ccでの成功
世界選手権の最高峰クラスにはスズキによる多くの勝利が刻み付けられている。
1976〜82年に獲得したタイトルはコンストラクターが7回。ライダーズタイトルは計6回で、そのうち、バーリー・シーン選手が2回(76、77年)、マルコ・ルッキネッリ選手が1回(81年)、ケヴィン・シュワンツ選手が1回(93年)、ケニー・ロバーツ・ジュニア選手が1回(2000年)。

500ccクラスでの初勝利をもたらしたのはオーストラリア人ライダーのジャック・フィンドレイ選手で、1971年にプライベートチームより参戦しアルスター戦を制覇した。1974年にはスズキのワークスチームが結成され、バーリー・シーン、フィンドレイの両選手が出走。この年のベストリザルトはシーン選手がフランス戦で獲得した第2位だった。

1975年、アッセン戦で遂にシーン選手が1位を獲得、その後のスイス戦でも偉業を果した。
しかし同シーズン終盤、ヤマハやMVアグスタ同様、スズキのワークス撤退の知らせが届く。このため、スズキ機はイギリスの輸入業者Heron社へと委ねられ、シーン選手と共にジョン・ウィリアムス、ジョン・ニューボルド両選手が参戦した。
1976年、シーン選手は総合優勝を成し遂げ(1位5回。総合ランキングでは同選手以降、5名のスズキライダーが並んだ)、翌77年には1位6回を獲得しタイトル防衛を果たす。新チームメイトのパット・ヘネンスティーブ・パリッシュ両選手がそれぞれ3位、5位を獲得した。

1979年よりスズキはワークス機をHeronの他、Riemersma Racing(ウィル・ハートッグ選手)、Team Gallinaヴィルジニオ・フェラーリ選手)の2チームにも委ねている。
なお同年、タイトルを獲得したのはヤマハのケニー・ロバーツ選手で、スズキRGBを駆る3選手がそれに続いた(2位フェラーリ、3位シーン、4位ハートッグ)。

1980年にはランディ・マモラ選手がスズキ機を駆り、『常連チャンピオン』のロバーツ選手に続いて2位となり、3位にはマルコ・ルッキネッリ選手(スズキ)が入った。
翌81年、今度はルッキネッリ選手が新RG Gammaを駆ってタイトルを獲得し、82年にホンダへと移籍している。

ルッキネッリ選手の代わりにTeam Gallina入って来たのがフランコ・ウンチーニ選手で、同82年には1位を5回獲得したうえで総合優勝を果たしている。
翌83年にはオランダGPで激しい事故に見舞われ(ホンダ3気筒を駆り同GPがデビュー戦だったワイン・ガードナー選手に轢かれる。)、このためタイトルを逃してしまった。
結局、総合ランキングではマモラ選手の3位が最高となり、シーズン閉幕時にスズキはレース撤退を表明。

その3年後、スズキはライダーに伊藤巧、ケヴィン・シュワンツ選手を起用し、何戦かで新RGV-Γ500機を投入。
1988年、シュワンツ選手のチームメイトにロブ・マッケルニア選手を配して参戦。シュワンツ選手は日本、ドイツの2戦で勝利を収めた。
その後、シュワンツ選手は95年の引退までスズキ一途で走り続けることとなる。93年にはタイトルも獲得し
(1位4回)、この他にも89年4位(1位6回)、90年2位(1位5回)、91年3位(1位5回)、92年4位(1位1回)と言う成績を修めた。
1994年がシュワンツ選手がフル参戦した最後の年となり、1位2回獲得し、総合ランク4位となった。そして、翌95年、3戦を終えた段階で引退を決意。この年、チームメイトのダリル・ビーティー選手が1位を2回獲得し総合2位となっている。

スズキ機を駆るライダーが次にタイトルを奪回したのは2000年のことで、ケニー・ロバーツ・ジュニア選手によるもの。

モトGP、近年の成績
2ストロークから4ストロークへと変わったことで、2002年、スズキは新GSV-R機を投入し、ロバーツ・ジュニア、セテ・ジベルナウ両選手を出走させた。
990ccではジョン・ホプキンス、クリス・ヴァーミューレン選手らが参戦したが、4ストローク時代にスズキが1位を獲得することは1度もなかった。
2007年の800cc時代、フランスGPでは雨のお陰もあって、ヴァーミューレン選手が1位の座に輝いた。同シーズン、ヴァーミューレン選手は表彰台に4回上がり、総合ランク4位となっている。
2008年にはローリス・カピロッシ選手が入り、3年間に渡ってGSV-R機を駆った。2010年にはチームメイトにアルヴァロ・バウティスタを迎えている。
2011年、スズキはバウティスタ選手のみの1ライダー体制を取り、ホプキンス選手が3度のスポット参戦で加わった。なお、この年のバウティスタ選手は開幕戦で骨折に見舞われ、結局、総合13位で終えている。

そして、世界選手権におけるスズキの歴史に幕が降ろされた…少なくとも、現在のところは。
2011年11月18日に撤退が公表されはしたが、しかし、門戸が閉ざされたわけではない。1000ccマシンの開発は続けられ、2014年にはまた新たに参戦してくる可能性があるのだから。

(日本語翻訳:La Chirico / 伊語記事:Gpone 2011年11月18日




私がモトGPを見始めたのは7〜8年前ってとこなもんですから、すっかりスズキの活躍を見逃してしまいました…


スズキ…2014年には「おかえり」って言わせてね!クリックPrego

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