MotoGP

ダビデ・ブリビオ物語、ヤマハ編

『ダヴィデ・ブリビオ物語、ヤマハ編』

★ダヴィデ・ブリヴィオは2020年、スズキのモトGPチームマネージャーとしてライダー&チーム部門でのタイトルを獲得し、その功績が高く評価され、同業界から初めてF1チームへの幹部職に抜擢された。

★若き日のブリヴィオはプログラマーとして働いていたものの、オートバイへの熱が冷めやらず、自宅近くのモトクロス・サーキットへ通ううち、月刊誌『MotoLombardia』に地元レースの記事を書くようになった。
その後、ファブリツィオ・ピロヴァーノのSBKチームで広報の仕事をするようになったが、当時、他に本業があったため、常に有給休暇を取ってサーキット入りしていた。しかし、ある日、すべての休暇を使い切ってしまったため退職を決め、ピロヴァーノチームに再就職した。

★1995年、ブリヴィオはヤマハSBKチームのマネージャーに任命され、ヤストモ・ナガイや若きコーリン・エドワーズを取り仕切った。
2000年にはノリユキ・ハガがSBKタイトル獲得に迫ったものの、ドーピングで失格となり、総合2位に終わる。

★その後、ヤマハはSBKから撤退し、2001年よりハガ選手をロードレース世界選手権500ccクラスに参戦させる。ブリヴィオは同チームのマネージャーとなり、そのうえ、イタリアのジェルモ・ディ・レズモにあるヤマハ・イタリア支部内にレース部門を設置するよう命じられる。

★2002年、ヤマハはモトGPクラスにマックス・ビアッジカルロス・チェカを参戦させ、ブリヴィオはそのチームマネージャーを任せられる。
ビアッジは1年のみで放出され、後任のマルコ・メランドリも鳴かず飛ばずで、ヤマハ・モトGPチームは不遇の時を過ごす。

★ブリヴィオ氏が当時について、次のように話した。

「2005年はヤマハにとって50周年記念だったので、何かしなければならなかったんですよ。12年間、タイトルも取れてなかったですしね。
それで、ヴァレンティーノ・ロッシのことが話題に出始めて…当初は夢物語って感じでしたけどね。ヤマハ内でも議論になって…誰かがこう言ったんです…『勝てばロッシのお陰と言われ、負ければヤマハ機のせいってことになる』と。
それで、私はこう答えたんです…『まずは勝つことでしょう。その後は様子を見ていけば良い』と。
(ロッシとの)交渉は長きに渡り、マサオ・フルサワ(ヤマハ機開発の重要な鍵となったテクニカルディレクター)のお陰もあり、最終的に上手くいきました。
あそこからヤマハの歴史が変わったと言えるでしょうね。ヴァレンティーノは勝っただけじゃなく、ヤマハに勝利のメンタリティをもたらしてくれたのだから。」

★2008年、ブリヴィオはヤマハにホルヘ・ロレンソを加入させる。
2010年にロッシがドゥカティ移籍を決めた際、ブリヴィオとリン・ジャーヴィス(ヤマハ・マネージングディレクター)の仲は険悪なものとなる。
ブリヴィオはロッシと共にヤマハを辞め、VR46社の経営を担うようになる。

( スズキ編に続く )

(参照サイト:『Moto.it』)
(Photo:Twitter

モトGP業界でリン・ジャーヴィスはけっこう権力があるって話は、note『モトGP:権力&資金力ランキング他』でどうぞ!

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